社長のページ『おいしい話』
Vol. 160 明治4年酒造免許
【2011.10.8】
山川家が酒造業を始めたのは明治5年だと言い伝えられています。明治4年7月に太政官令が発布され酒造免許を取れるようになりましたので、この言い伝えは信じていいと思います。
明治4年7月「清酒濁酒醤油鑑札収与並びに収税方法規則」が民部省・大蔵省から出されました。その第一則に
「新規免許鑑札願受候モノハ、為免許料清酒は金十両、濁酒は5両、醤油は壱両一分宛可相納、・・・」
とあります。また、その他、免許を受けると毎年5両を「造り高の多少に関らず稼人一箇に付き支払うこと」や、「生酒代金の5%を前年の酒価平均で計算し、8月に造高鑑札を願い出た醸造に応じた金高を10月に納めなさい」と決められました。
この太政官例の前文には、明治2年に12月の民部省布達は酒税法の大体を定めたるに止まり、その取締りの細目は各地に適宜に任せたが、その適用を全国一律にする目的で定めたと書かれています。今風に言えば規制緩和で10両納めれば酒造業を始められることになったということでしょう。
山川家が分家して4代目の山川由良太が酒屋を始めました。このとき由良太は32歳でした。酒屋になって2代目の信一の代に、本家の、そのまた本家である本家正善寺の住職さんが過去帳から拾って作ったと思われる家系画があります。その由良太(国譲)は家を継ぐと、「節約に励み家産を起こさんと欲し、性農を好まず、商業世界の極めて有望なるを観透します。」創業の時、由良太の嫁の弟西川昱太郎は度量が大きく由良太を助けたそうです。
由良太は商業界に入り、居を現在の場所に移しました。
父由一郎から聞いた話では、すぐ川の上流の場所に水車小屋があったそうです。菜種油を搾っていて、隣村で西川氏と協同で藤井という酒屋をはじめたようです。
明治17年の信一の日記が残っていて、水車に使う水の水利権でのもめたようです。また講のお金の保証の責任者についてのもめ事がありました。何月何日の天候と何処へ行って、誰
とあったかや、夏には赤痢で寝たとか具体的に書かれています。
この日記と言い伝えから類推しますと、明治5年にはある程度の資産を持っていて、嫁マサの兄・西川昱太郎と共同で酒屋を始めました。創業の場所は西川家がある上分村で、藤井商店という酒屋商いを始めました。由良太の元々の住まいは金川村の山麓でしたが、何時の頃か、藤井商店に近い現在地に移ってきました。明治17年には藤井商店に出勤していました。現在地の近くに水車小屋がて、水車を使って菜種油を搾り、米粉を引いた
りしていたようです。精米もしていたかもしれません。
明治17年の日記には川之江村の三好範平の酒の道具を買う交渉していましたが、結局、酒蔵を借りて酒を造りました。
明治17年由良太は44歳、信一20才です。川之江村酒造場は西川昱太郎名義の酒類醸造免許鑑札で酒を造ったと書いてあります。









