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Vol.192 太田蜀山人

【2014.6.10】

 太田蜀山人または太田南畝でよく知られています。蜀山人も南浦も号です。中学校の教科書載っていて、狂歌師で文化人だと教わったと記憶しています。また、落語には蜀山人の狂歌がよく出るので、私にはなじみ深い名前です。それ以外については、今回初めて知りました。


 なじみ深い狂歌に


世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶというて夜も寝られぬ
「ぶんぶぶんぶと世も寝られぬ」と記憶していました。
いまさらにおそれ入谷の鬼子母神 あやうく過ぎし時と思えば


 辞世の句は


  今までは人のことだと思うたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん


これらの狂歌は多分落語で聞いたのだと思います。


 太田蜀山人は1749(寛延2)年に生まれ天明・寛政・京和・文化・文政と74歳まで活躍し、文政6(1823)年に没しました。幕府の批判をした狂歌が印象に残っているので、在野の文化人かと思っていましたが、下級武士でした。といっても御家人ですから田沼時代の重商主義の経済が成長した時代に狂歌、洒落本、随筆などを書く文化人でした。特に狂歌師として知られています。田沼時代は、ある意味でバブルの時代でした。狂歌、黄草紙、浮世絵(錦絵)が興ったのもこのころです。浮世絵の出版元・蔦谷重三郎や落語の原型である「落とし噺」の談州楼焉馬(だんしゅうろうえんば)が活躍した時代です。黄表紙の山東京田、読本の曲亭(滝沢)馬琴、浮世絵の鈴木春信、鳥居清長、文人画の池大雅、浦上玉堂、谷文晁、絵師の円山応挙、酒井抱一など教科書に出てくる江戸文化の象徴的な人が活躍した時代でした。というより今私たちが江戸文化だと思っているものの多くがこの時代に始まったといっていいでしょう。


蔦屋重三郎は狂歌の会・吉原連を作っていました。 琳派の画家・酒井抱一は姫路藩主忠仰の次男で、俳人であり狂歌の号は屠龍(とりょ)です。


太田蜀山人は天明6(1786)年37歳のとき、吉原松葉屋の遊女三保崎を妾として身請けしています。下級武士ですが、吉原に出入りするだけの実入りがあったのでしょう。柳沢重商主義の恩恵を受けたようです。


太田蜀山人は田沼意次の腹心の一人であったという勘定組頭・土山宗次郎の宴会の席に呼ばれた記録があり、付き合いがあったようです。土山宗次郎は田沼意次失脚ご公金横領などの罪で処刑されました。


 田沼意次に代って、松平定信が登場しました。世にいう寛政の改革が行われました。太田蜀山人先生と付き合いがあった文化人、山東京田は手錠50日、蔦谷重三郎は身代半減などの弾圧を受けました。寛政の改革は文化人にとって影をひそめなければならない時代でした。


 このため蜀山人も筆を折り、狂歌を作ることを一切止め、文人仲間との付き合いも控え、御徒と御家人として幕府に忠誠を尽くします。ここから蜀山人先生の後半生が始まります。


 寛政4(1792)年44歳の歳、幕臣登用のための試験「学問吟味」を昌平坂学問所で行いました。もちろん蜀山人先生の成績は優秀であったのだが、試験官の森山源五郎(孝盛)によって落第させられました。「人格の点で高級幕吏には不適格」とい理由でした。2年後46歳のとき第二回「学問吟味」を再受験し、主席で合格しました。その後勘定方ではよい役目とされる、大阪の銅座に転勤した後、55歳で長崎奉行所に転勤します。70歳まで役目につきました。蜀山人の酒を読んだ狂歌を拾い出してみました。


  世の中は色と酒とがかたきなり どうぞかたきにめぐりあいたい
  酒をのむ陶淵明がものずきに かなふさかなのお料理菊
  酒のんだ上杉なればはかりごと あるべき直江山しろの守
  徳利はよこにこけし豆腐汁 あまりてなどかさけのひひしき
  友なくて酒もなしになかめばな いやになるべき夜はの日かな
お酒は好きだったようですが酒にまつわる句が特に多くはないようです。また、酒にまつわるエピソードも探し出すことができませんでした。
 
 
 


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