vol.146 下り酒


 家康が1590年居城を江戸に移しました。1603年征夷大将軍となり、幕府を開きます。江戸を中心にした中央集権的な国の体制が整えられました。寛永年間参勤交代が制度化されますと全国の大名が江戸に集まります。

 当然その家臣も一緒に来ますし、大名の家族は人質的な意味で江戸に住むわけですから、急に人が増え、町ちつくりのための職人や人足、また、多くの武士階級の人たちの日常生活をまかなうための物資とそれを扱う職人、商人たちが集まってきます。

 江戸の人口は寛永10(1633)年の調査ではおおよそ15万人ほどだったものが、元禄6(1693)年、35万人になっています。江戸時代、一般的には毎年、人別改めが行われますが、一般庶民にたいして行われ、大名家については幕府も調査ができませんので、これには武士の人口は含まれていません。武士の人口はわかりませんが町人人口と同じか、少し多かったのではないかといわれています。元禄期の人口は70万人か80万人ほどだったと考えられます。

 この人口増加に対して、経済の中心だった上方から物資が運ばれてゆきます。この中にはお酒も含まれていました。 江戸へお酒を送り始めたのは、伊丹隣郷、鴻池の山中家が始めたと、後の記録があります。
 
 江戸送りの始めは馬の背の左右に4斗樽を振り分けてはこんだといわれています。1樽を片馬と表現し、2樽を1駄という事から類推されて

います。船での輸送は、元和5(1619)年、和泉・堺の商人が紀州の富田浦の廻船を雇って江戸へ回航させたのが創始で、木綿、油、酒、酢、醤油などの多様な日常の生活物資を運びました。寛永期に大坂北浜の泉谷平右衛門が江戸積問屋を開き、菱垣廻船問屋を成立させました。

 菱垣回船という名前は両舷に設けられた垣立(かきだつ)と呼ばれる舷墻に、装飾として木製の菱組格子を組んだ事に由来するのだそうです。元禄時代には摂津の国属する池田・伊丹・鴻池・大鹿・富田・福井といった地域が下り酒の銘醸地として知られています。

 この頃の伊丹の酒造業について書かれた井原西鶴の『西鶴織留』のなかに

「池田・伊丹の売酒、水より改め、米の吟味、こうじを惜しまず、さわりある女は蔵に入れず、男も替えぞうりをはきて出し入れば、軒を並べて今のはんじょう、升屋・丸屋・油屋・山本屋……このほかしだいに栄えて上々吉諸白、松尾大明神のまもり給えば、千本の杉葉枝をならさぬ時、津の国の隠れ里かくれなし」

 と書かれ、伊丹の諸白酒が絶賛されています。このように大切に造られた酒が江戸に送られていました。

 このように桧垣回船で送られた品は舶来品、高級品として重宝されました。

 近世の酒造業は幕藩体制の確立期に、領主市場の成立と米の商品化を機軸にした経済関係の中で発展していきました。近世前期の城下町・都市酒造業の中でも、江戸の発展と結合した江戸積酒造業は諸白造りの上方において急速に発展しました。近世前期の江戸積酒造業のピークは元禄期と考えられます。

 幕府は近世初頭以来異常なまでに発展した酒造業を、全国的規模で掌握したのが、元禄10(1627)年の株改めです。この調査によりますと、江戸入津樽は64万樽(1樽に3.7斗入りだったいわれている)、236、800石(42、624kl)です。人口を75万にとして、一人当たり56.8L(31.4升)です。

 現在は2.86升/人ですから、日本酒だけしかなかった時代とはいえ、10.9倍です。これは一人当たりのビールも含めた全酒類の量が66.9Lに近い量です。
江戸の人達の飲みっぷりのすごさを感じます。

参考資料
@ 酒造経済史の研究 油木学著 (有斐閣)
A 伊丹酒造業と小西家 石川道子 Fujiyama.net.



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次回の更新予定は22年9月10日です。